第4の開国?

基幹産業という言葉があります。
その地域に住む人々の社会と暮らしを支えるだけの富を生み出す主要産業が基幹産業、今更言うまでもないことですが、その基幹産業のこれからを考える上で示唆に富んだお話を聞くことが出来ました。
今週、釧路新聞社の星匠社長が釧路の産業史をテーマとして北海道中小企業家同友会くしろ支部一歩の会でお話してくれました。

私たちはついつい目の前の風景が昔から同じようにあったと錯覚しがちですが、もちろんそんなことはなく、釧路の産業史は今「西郷どん」でやっている明治維新が起こる直前の幕末から始まります。

ペリーが黒船で来て函館にも開港を迫ったのですが、それは当時三陸沖で盛んだった鯨漁のための捕鯨船の補給基地が必要だったためです。鯨油を絞るためには燃料が必要で釧路の岩見浜でそのための石炭の採掘が北海道で初めてはじまります。それが今唯一国内で続いている炭砿のスタートです。(第一の基幹産業:石炭)

1872年(明治5年)には佐賀藩から174戸、637名が移住し、今の釧路町の浜でニシン、コンブ、サケなどの沿岸漁業を本格的に始めます。(第二の基幹産業:漁業)

1886年(明治19年)当時の安田財閥が内陸の硫黄山から硫黄の採掘を始め、その積出港として釧路港が特別輸出港になります。

その後1901年(明治34年)に釧路-白糠鉄道が開設しますが、国有林の原木を切り出し釧路港から輸出するために鉄道の敷設を急いだのです。当時、世界中で鉄道の枕木が不足していて全世界に輸出していたというから驚きです。

水、硫黄、原木が豊富にある利点を生かして前田正名(阿寒湖前田一歩園の創設者)が製紙工場を始めます。(第三の基幹産業:製紙)

といった感じで釧路の三大基幹産業と言われてきた石炭、漁業、製紙は明治の日本の発展と共にスタートしたのです。

農業分野では今でこそ日本一の酪農王国で乳牛がメインですが、1908年(明治40年)には軍馬補充部の釧路支部が設置され、馬中心だったのです。そう言えば、僕の爺さんも戦前は軍馬を育てていたという話を思い出しまた。

漁業は戦後、遠洋漁業が盛んになり漁獲量日本一の時代が10年以上続いたのですが、200海里規制で衰退、最近は全盛期の10分の1に満たない量で推移しています。

さて、三大基幹産業と言われた石炭は太平洋炭砿が閉山し、後継の釧路コールマインとして細々と日本で唯一残る坑内掘りの炭砿して存続していますが、いつまで続くか分からない。
漁業が上述した通りで元気がない。
さらに製紙工場は紙需要が縮んで日本製紙の3つのラインの内1つを閉鎖するという発表があったばかり。

これまでの長い時間軸で見ると、産業の盛衰は時間の経過と共に本当に大きく動いてきたし、今のその大きな流れの中で今後も産業ごとの栄枯盛衰は止まらないと思います。

星さんのお話では、観光産業が第4の基幹産業に成り得ると言います。
確かに、近々ではインバウンドも増えているし、国内顧客の入り込みも以前より多い。

基幹産業と言うからには、我先にと投資する人、儲かりそうだ、面白そうだと事業を興す人が数多く出てくることが先決。

昨今ニセコがそんな世界になっているのですが、問題は投資家も外国人、働いている人も外国人、地域に本当に金が落ちていて雇用を生んでいるのか?ってことだと思います。
気付いたら土地も全て外国に買い占められていて、本当にここは日本なのか?
ってことも考えないとなぁ~と思います。

時間軸と共に地域の景色も激しく変わっていく。産業地図が激変するのも当たり前。
150年前には、ここは殆ど誰も住んでいなかったのだから・・・。

第4の基幹産業、第4の開国、そんな思い切った方策が必要かもしれません。